〈労働者通信〉 教育現場における「些細な抵抗」の事例から
職場はそこで働く者のもの


 学校教師の仕事は「教育」とそれ以外の「雑務(分掌)」に大別される。学校教育法にも「教育は教師がつかさどる。……校務は校長がつかさどる」とあるので、「校務」を校長の代わりに「分けて掌る」ということで「分掌業務」と言い「教育」に関わる仕事をわれわれの「本来業務」と呼んでいる。だからわれわれは「分掌業務」を「雑務」と呼んだりもする。そしてこの「雑務」は「グループ」と呼ばれるそれぞれの部分組織で担うのが普通である。世間では、授業だけに専念しているのが教員だと思われているのかもしれないけれど、実際にはこの「雑務」がほとんどの比率を占め、しかも最近では「特色だ! 宣伝だ! イベントだ! 入試改革だ! 部活だ! 観点別評価だ! 報告書だ!」と県教委、校長に「雑務」を増やされ、「本来業務」は二の次、三の次となっている。だから「良心的教師」は「本来業務」を無賃残業でこなす。「授業がなければもっと仕事が進むのに」などとつい本末転倒を口にしていることすら自覚できないほどである。この自覚のなさはわれわれ学校労働者の抵抗力のなさの結果でもある。

欺瞞への抵抗

 ところで、ここ数年、県立高校では(実はすべての学校で)授業時間数が増やされている。「本来業務」を回復させようとの動きか? と思うかもしれないがそんなはずはない。この通信ではこの辺りを展開することが目的ではないので詳しくは書かないが、理由を一言でいえば、今世紀初頭に、「OECDの『新』学力調査(PISA)での順位が思わしくない」と資本家階級の団体や代表者が不満を述べたことへの反応の一つということである。当然、先に書いた事情から「何をいまさら、勝手なこと言いやがって」が現場の声である。
 しかし、「定時制高校については実情に応じて……」と県教委も言わざるをえなかったので、わたしが働いている定時制高校でもこれまで数年は影響がなかった。しかし、いよいよ昨年度は、次年度(つまり今年度)の年間計画をめぐり、校長が「補習期間を短縮して授業時間を増やしたい」と言い出した。はじめ校長は「補習期間縮減」を直接に提案するのではなくグループ(分掌)から提案させようとしたのだが、当該グループは「提案としてまとめられない」と突き返したので、校長が直接提案することになった。次に分会会議を開いてこの件を話題にし、次回の職員会議では複数で反論することを確認してわたしがその口火を切ることにした。
 校長の主張は、「生徒の学習を保障するためには授業時間を増やすことが必要である。だから定期試験後の補習期間を短くしたい」だった。しかし、一斉授業ではほとんど学習することができない生徒が多数いるのが定時制高校の現実である。かれらは前提とする知識をあまりに欠いているので(場合によっては小学校の一、二年程度)、補習期間を利用して一対一で教えることで初めて会話が成り立ち、信頼関係ができ学習が可能となる。かれらはこれまで「みなが当たり前にできることを、自分だけができない」経験を十数年重ねたがために、自分で聞いて、考えて、取り組むことをあきらめている。
 それでも個別に教えることで初めて「自分もできる」という経験を経て、自信を取り戻す(もちろん現実にはそう簡単ではないのだが)。また、極少数だが進学をする生徒にも補習期間や休業期間を利用して対応する。しかも生徒との信頼関係のあるなしはわれわれの負担の大小にも直結する。以上の理由で本校では補習期間を長めに確保してきた。したがって校長の「授業時間数増=学習保障」の形式的主張は当たらない。それどころか、むしろ学習の機会を奪うものであり、こういった感想は定時制の教員なら誰しもが持つものである。熱心に「授業観察(勤務評定の材料集め)」を行なっているようだが何を見ているのだろうか。「学校長」を世間に名乗りながらそんな態度では甚だ怠慢と言えないか……などと批判したのだが、学校長は「学習保障」をあいかわらず繰り返すばかりで、真っ当に答えようともしないので、さらに職員会議は「さまざまな教育課題への対応方策についての共通理解を深めるとともに、……職員間の意思疎通を図る上で、重要な意義を有するもの 」(二〇〇〇年文科省通知)であるにもかかわらずその努力すらしない学校長の態度を批判し他の職員の発言を求めたのだった。
 わたしの発言後も、補習期間縮減ありきの校長提案への疑問、賃労働や生活環境の厳しさからやっとの思いで出席している生徒にとってはただ欠席回数を増やすだけに(そのせいで進級や卒業ができなく)なることへの懸念、などを主張する発言がいくつか続いた。それらを受けて担当者から、各グループ、学年、教科にアンケートを取り、それをもとに再検討することが提案されてその日の職員会議は終了した。
 その後、アンケートではほぼすべてで反意が示された結果、校長提案は退けられ実質的には従来通りとなった。実は昨年度は、五月に始終業時刻を早めることにも取り組んだ。実現はしなかったが、職員へのアンケートを管理職に取らせる前例となった。その結果「早める」に賛成多数で少なくとも反対はなかったにもかかわらず「特段に始終業時刻を変更する必要を感じない」と校長が回答したことは、もの言いは柔らかいが、硬直した校長の性質が職員の間で共有されることとなった。そして今回の一件では逆に「特段の理由がない」のに補習期間を短くしようとする校長の御都合主義が明瞭になったのだった。

階級意識の「芽」

 ずいぶんと経過説明が長くなったが、この通信では学校長の頽廃的態度を罵りたいのではない。この一件後の分会会議で、ある四〇代の同僚は「今回のように校長の意向とは違うことを通すことができるのだという、良い経験になりました」という感想を述べていた。かれは数年前には労働組合に抵抗感があり、加入の誘いも何度か拒んだ人だった。また別の右翼趣味的な傾向もある 三〇代の同僚は「とにかく課題を見つけて、抵抗していくってことですよね」と発言していた。そしてその他の組合員の表情も今までよりも積極的であるように、わたしには見えた。かれらは教師になってから七、八年、この高校が二、三校目となるのだが、それまで今回のような職場での些細な抵抗の経験すらなかったと同時に、この些細な経験からでも「職場はそこで働く者のものである」との自覚を芽生えさせたということでもある。
 今回の一件は、一学校の、しかもその年間計画の一部分という社会全体の状況から見れば「点」のように些細な抵抗でしかない。そしてこの「点」はそのままではすぐに消えてしまう。しかし、課題が山積する今日の職場の状況はこのような「点」を作り得る可能性も山積している。この可能性を、「線」でつなぎ、さらに「面」や「空間」へと発展させる運動が現在もっとも求められている。それは「職場(生産点)はわれわれのものである」という自覚の再生、すなわち階級意識を組織する作業にほかならない。そのためにはどうしても労働組合の組織とその発想をもった執行部の存在が不可欠なのだ。
 ファシズム体制が実現しつつある政治状況、そしてそれを許すことになってしまった抵抗側の思想の弱点を省みたとき、この視点が決定的に重要だとわたしは強く訴えたい。
 これは「地道にコツコツ諦めさえしなければ……」という殉教者的心理の吐露ではない。支配階級は、この数十年をかけて、最大の抵抗勢力であった国労、総評を潰し、派遣法や労働法制を改悪しつつ独占資本への諸規制を撤廃あるいは骨抜きにし、われわれ民衆には組織や集団を否定するイデオロギーを浸透させ、その上で「わが国は攻撃されている!」と外敵を偽造することで戦争体制をしいてきている。この過程を考えれば、破壊されたわれわれの抵抗力の土壌を作り直す作業を無視したままでは、真の抵抗を作り出すことは不可能である。【藤原 晃・学校労働者】

(『思想運動』1004号 2017年7月1日号)